百人一首句集1〜10百人一首.net

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百人一首-10-蝉丸(せみまる)

百人一首-10-蝉丸(せみまる)

蝉丸(せみまる 生没年不詳)は平安時代前期の歌人、音楽家。古くは「せみまろ」とも読む。

小倉百人一首にその句が収録されているので知られているが、その人物像は不詳。宇多天皇の皇子敦実親王の雑色、醍醐天皇の第四皇子などと諸伝がある。また、仁明天皇の時代の人という説もある。

逢坂の関に庵をむすび、往来の人を見て「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌を詠んだという(百人一首の札では “行くも帰るも分かれては” となっている)。このため、逢坂の関では関の明神として祭られる。また、源博雅が逢坂に三年間通いつづけて遂に8月15日夜に琵琶の秘曲「流泉」「啄木」を伝授されたともいう(『今昔物語集』)。盲目の琵琶法師だったという説もあり、一方で盲人ではなく、単に乞食であるとする伝承もある。和歌は、上記のものが「後撰和歌集」に収録されている他、「新古今和歌集」「続古今和歌集」にも三首収録されている。また、蝉丸に関する様々な伝承は『今昔物語集』や『平家物語』などにも登場している。

能に「蝉丸」(四番目物の狂女物)という曲がある。逆髪という姉が逢坂の関まで尋ねてきて、二人の障害をもった身をなぐさめあい、悲しい別れの結末になる。この出典は明らかでない。



◆百人一首-10-蝉丸(せみまる)

これやこの 行くも帰るも 別れては





百人一首-8-喜撰法師(きせんほうし)

百人一首-8-喜撰法師(きせんほうし)

喜撰(生没年不詳、伝不詳)は平安時代初期の僧・歌人。六歌仙の一。宇治山に住んでいた僧であるという事以外は不明で、下に掲げる二首の歌以外はなんら今日に伝えるところがない。古今和歌集仮名序には、「ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と評されている。

歌学書『倭歌作式』(一名『喜撰式』)の作者とも伝えられるが、今日では平安後期の偽書(仮託書)と見られている。

『無名抄』によれば、宇治市の御室戸の奥に喜撰の住みかの跡があり、歌人必見であるという。今も喜撰洞という小さな洞窟が山腹に残る。



◆百人一首-8-喜撰法師(きせんほうし)

わが庵は 都のたつみ しかぞ住む





百人一首-7-阿部仲麻呂(あべのなかまろ)

百人一首-7-阿部仲麻呂(あべのなかまろ)

奈良時代の遣唐留学生。唐で科挙に合格し、高官に登ったが、日本への帰国を果たせなかった。中国名を朝衡という。孝元天皇の皇子、彦太忍信命の血を引く。



◆百人一首-7-阿部仲麻呂(あべのなかまろ)

天の原 ふりさけ見れば 春日なる





百人一首-6-中納言家持(ちゅうなごんやかもち)

百人一首-6-中納言家持(ちゅうなごんやかもち)

大伴家持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長歌・短歌などあわせて473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。

『万葉集』卷十七〜二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。

正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には載っていない。



◆百人一首-6-中納言家持(ちゅうなごんやかもち)

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の





百人一首-5-猿丸大夫(さるまるだゆう)

猿丸太夫(さるまるのたいふ、さるまるだゆう、生没年不詳)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三十六歌仙の一人。元明天皇時代または元慶年間ころの人物とも言われるが実在した人物か不詳。 天智天皇の皇子施基皇子、聖徳太子の孫弓削王、柿本人麻呂との説もあるが、伝承上の人物との説が最も多く言われている。
猿丸は名、太夫は官位を表している。

「三十六人集」の中に『猿丸大夫集』なるものがあるが、後人による雑纂古歌集であり、その中の歌が猿丸大夫が作ったものであるかは不明である。



◆百人一首-5-猿丸大夫(さるまるだゆう)

奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の





百人一首-4-山部赤人(やまべのあかひと)

山部赤人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山部赤人(百人一首より)山部赤人(やまべのあかひと、生没年不詳)は、奈良時代初期の歌人。三十六歌仙の一人。後世、柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。『古今和歌集』『小倉百人一首』では山邊赤人と表記する。

その経歴はあまり定かではないが、下級官人であり、聖武天皇朝の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したことが推測される。また、同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。

万葉集には長歌13首、短歌36首が掲載されている。自然の美しさや清さを詠んだ叙景歌がすぐれている。



◆百人一首-4-山部赤人(やまべのあかひと)

田子の浦に うち出でて見れば 白妙の



百人一首-3-柿本人麻呂(かきのものとひとまろ)

柿本人麻呂(かきのものとひとまろ)

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、男性、660年頃〜720年頃)は、飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。

彼の経歴は定かではないところが多く、史書にも書かれておらず、『万葉集』が唯一の資料である。草壁皇子の舎人として仕え、石見国の官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとされている。

彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。



◆百人一首-3-柿本人麻呂(かきのものとひとまろ)

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の




百人一首-2-持統天皇(じとうてんのう)

百人一首-2-持統天皇(じとうてんのう)

持統天皇(じとうてんのう大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。女帝である(在位:686年 - 697年)。名は鸕野讚良(うののさらら,またはうののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある。(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである。)漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船による。



◆百人一首-2-持統天皇(じとうてんのう)

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の





百人一首-1-天智天皇(てんじてんのう)

百人一首-1-天智天皇(てんじてんのう)

天智天皇(てんちてんのう/てんじてんのう。男性。推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月10日))は、第38代に数えられる天皇。国風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)。青年期の名を中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/なかのおおえのみこ)、幼名を葛城皇子という。



◆百人一首-1-天智天皇(てんじてんのう)

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ