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 任天堂新品DS タッチで楽しむ百人一首 DS時雨殿
 
「百人一首」で知る日本の伝統文化。百人一首を様々な形で楽しめる。京都嵐山にある「小倉百人一首」をテーマにした体験型学習施設「時雨殿」。「時雨殿」で触れることができるかるた勝負や、百人一首の技を鍛えることができるミニゲームなど、DSならではの機能で伝統文化の魅力を堪能することができます。また、タッチペンで調べる京都案内も収録しています。

百人一首-20-藤原敏行(ふじわら の としゆき)

百人一首-20-藤原敏行(ふじわら の としゆき)


藤原敏行(ふじわら の としゆき、生年不詳 - 延喜7年(907年))は、平安時代初期の歌人、書家。没年は延喜元年(901年)説もある。

父は藤原富士麿(陸奥出羽按察使)、母は紀名虎の娘。妻は紀有常の娘(在原業平室の姉妹)。子に季方、有快、伊辛、伊衡、伊望など。藤原南家に生まれ、官位は従四位上右兵衛督に至った。三十六歌仙の一人で、家集に「敏行集」がある。書は三筆の一人であり、神護寺の国宝・梵鐘の銘文は敏行の書である。

『宇治拾遺物語』によれば、敏行は、多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りも書いたが、魚を食うなど、不浄の身のまま書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたという。



◆百人一首-20-藤原敏行(ふじわら の としゆき)
住の江の 岸に寄る波 よるさへや

百人一首-19-伊勢(いせ)

百人一首-19-伊勢(いせ)

伊勢 (いせ、872年(貞観14年)頃 - 938年(天慶元年)頃)は平安時代の日本の女性歌人。三十六歌仙の一人。伊勢守藤原継蔭の娘。伊勢の御(いせのご)、伊勢の御息所とも呼ばれた。

はじめ宇多天皇の中宮温子に仕え、藤原仲平・時平兄弟と交際の後、宇多天皇の寵愛を受けその皇子を生んだが早世した。その後は宇多天皇の皇子敦慶親王と結婚して中務を生む。

情熱的な恋歌で知られ、古今和歌集などに入集し、小倉百人一首に歌が取られている。家集に「伊勢集」がある。



◆百人一首-19-伊勢(いせ)

難波潟 短き蘆の ふしの間も

百人一首-18-藤原敏行(ふじわらのとしゆき)

百人一首-18-藤原敏行(ふじわらのとしゆき)

藤原敏行(ふじわら の としゆき、生年不詳 - 延喜7年(907年))
平安時代初期の歌人、書家。没年は延喜元年(901年)説もある。

父は藤原富士麿(陸奥出羽按察使)、母は紀名虎の娘。妻は紀有常の娘(在原業平室の姉妹)。子に季方、有快、伊辛、伊衡、伊望など。藤原南家に生まれ、官位は従四位上右兵衛督に至った。三十六歌仙の一人で、家集に「敏行集」がある。書は三筆の一人であり、神護寺の国宝・梵鐘の銘文は敏行の書である。

『宇治拾遺物語』によれば、敏行は、多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りも書いたが、魚を食うなど、不浄の身のまま書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたという。



◆百人一首-18-藤原敏行(ふじわらのとしゆき)

住の江の 岸に寄る波 よるさへや

百人一首-17-在原業平(ありわらのなりひら)

百人一首-17-在原業平(ありわらのなりひら)

在原 業平(ありわらの なりひら、天長2年(825年) - 元慶4年5月28日(880年7月9日))

平安時代初期の貴族。歌人であり、六歌仙、三十六歌仙のひとり、また伊勢物語の主人公とみなされる。

父は平城天皇第一皇子の阿保親王、母伊都内親王は桓武天皇の皇女で、業平は平城・桓武天皇の孫にあたる。別称の在五中将は在原氏の五男で右近衛権中将であったことからくる。

紀有常女(惟喬親王の従姉にあたる)を妻とし、紀氏と交流があった。子に棟梁、滋春、孫に棟梁の子・元方がありみな歌人として知られる。業平は『日本三代実録』に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、美男の代名詞のようにいわれる。早くから『伊勢物語』の主人公と同一視され、伊勢物語では、二条后こと藤原高子や惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王などとの禁忌の恋が語られている。



◆百人一首-17-在原業平(ありわらのなりひら)

ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川





百人一首-16-中納言行平(ちゅうなごんゆきひら)

百人一首-16-中納言行平(ちゅうなごんゆきひら)

平安時代の日本の歌人、公家。在中納言(ざいちゅうなごん)とも。平城天皇の皇子阿保親王の次男。在原業平は弟。母は不明、桓武天皇皇女伊都内親王(業平の母)説もあるが、生年から考えるに史実ではない。兄弟とともに臣籍降下して在原氏を名乗る。このとき九歳。

」 歌人としては古今和歌集ほかに合計11首入集し、また民部卿行平歌合(在民部卿家歌合)を880年代中頃に主催した。これは現存する最古の歌合である。

881年(元慶5年)在原氏の学問所として大学別曹奨学院を創設した。これは朱雀大路東、三条大路の北一町を占め、住居を与えて大学寮を目指す子弟を教育したもので、当時は藤原氏の勧学院と並んで著名であった。奨学院は醍醐天皇のとき、大学寮の南曹とされた。



◆百人一首-16-中納言行平(ちゅうなごんゆきひら)

立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる

百人一首-15-光孝天皇(こうこうてんのう)

百人一首-15-光孝天皇(こうこうてんのう)

仁明天皇の第三皇子。 母は贈太政大臣藤原総継(ふさつぐ)の娘、澤子。 兄弟には、文徳天皇、宗康親王 、人康親王、本康親王、源多、源光がいる。また嵯峨源氏の源是茂を養子としている。

宮中行事の再興に務めるとともに諸芸に優れた文化人でもあったとされる。和歌・和琴などに秀でともされ、桓武天皇の先例に倣って鷹狩を復活させた。また、親王時代に相撲司別当を務めていた関係か即位後相撲を奨励している。晩年は政治改革と親王時代の住居であったとされる宇多院の近くに勅願寺創建を計画するも実現を見ぬままに終わり、後を継いだ宇多天皇の「寛平の治」及び仁和寺創建に継承されることになる。

『日本三代実録』にある「天皇少(わか)くして聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と評されている。



◆百人一首-15-光孝天皇(こうこうてんのう)

君がため 春の野に出でて 若菜つむ



百人一首-14-河原左大臣(かわらのさだいじん)

百人一首-14-河原左大臣(かわらのさだいじん)

嵯峨源氏融流初代。紫式部『源氏物語』の主人公で美男子の光源氏の実在モデルとする説がある。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となった。また、別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。

六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。

陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、自分も皇胤の一人であると主張したが藤原基経に退けられたという。(『大鏡』) また融の死後河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見える。

現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったもの。




◆百人一首-14-河原左大臣(かわらのさだいじん)

陸奥の しのぶ もぢずり 誰ゆゑに





百人一首-13-陽成院(ようぜいいん)

百人一首-13-陽成院(ようぜいいん)

陽成天皇

歌人として優れたらしいが、小倉百人一首に採録された下記一首が伝わるのみである。

上皇歴65年は2位の冷泉天皇の42年を大きく凌ぐ1位である。『大鏡』には、いったん臣籍降下したにもかかわらず、父、光孝天皇の後をうけ即位した宇多天皇のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか。」と言ったという逸話が残っている。その皇子で又従兄弟でもあった敦仁親王(醍醐天皇)よりも長生きし、更に朱雀天皇、村上天皇と、大叔父の光孝系の皇統継承を見届けたのもまた、皮肉な事であった。ちなみに小倉百人一首に採録されているのは、宇多天皇の妹にあたる妃の一人、釣殿宮綏子内親王にあてた歌である。



◆百人一首-13-陽成院(ようぜいいん)

筑波嶺の みねより落つる みなの川





百人一首-12-遍昭(照)(へんじょう)

百人一首-12-遍昭(照)(へんじょう)

遍昭(へんじょう、遍照とも表記、弘仁7年(816年) - 寛平2年1月19日(890年2月12日))は、平安時代前期の歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人。俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)という。

桓武天皇の子・大納言良岑朝臣安世の八男。母は光孝天皇の乳母であったとする説がある。子に素性法師がいる。仁明天皇の蔵人で、849年(貞祥2年)従五位上蔵人頭となったが、寵遇を受けた仁明天皇の死去により出家し、円仁・円珍に師事。花山の元慶寺を建立し、869年(貞観11年)紫野の雲林院の別当を兼ねた。885年(仁和元年)に僧正となり、花山僧正と呼ばれるようになる。『日本三代実録』によれば、この年の12月18日に宮中仁寿殿において、光孝天皇主催による遍昭の70歳の賀が行われていることから、光孝天皇との和歌における師弟関係が推定されている。

「古今集」仮名序は「歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女を見て徒に心を動かすが如し」(歌の風体や趣向はよろしいが、実感にとぼしい。絵に描いた女を見ていたずらに恋心をつのらせるようなもの)と評する。「古今集」以下の勅撰集に約35首入集。家集に「遍照集」があるが、三代集から遍昭作の歌をひいて編集したもので、遍昭の独自性はない。



◆百人一首-12-遍昭(照)(へんじょう)

天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ

 




百人一首-11-小野篁(おののたかむら)

百人一首-11-小野篁(おののたかむら)

小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいる。

承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)

に正使藤原常嗣とのいさかいから、病気と称して職務を拒否したため、嵯峨上皇の怒りをかい隠岐に流された。2年後に許されて帰京。従三位参議に至った。

篁には奇怪な伝説が多いが、その中でもっとも有名なものは、夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたというものである。この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。

京都市北区にある篁のものと伝えられる墓の隣には、紫式部のものと言われる墓があるが、これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものである。

他に、『宇治拾遺物語』などには、」嵯峨天皇のころ、「無悪善」を「悪(さが(嵯峨のこと))無くば、善けん」と読み、また、嵯峨天皇の出した「『子』を十二個書いたものを読め」というなぞなぞを、見事に「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いてみせた、という逸話も見える。

また篁を主人公とした物語として、異母妹との悲恋を描いた『篁物語』がある。



◆百人一首-11-小野篁(おののたかむら)

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと